てぃーだブログ › 南ふう の MINAMI World

2024年11月19日

音楽の力

詩人の谷川俊太郎さんが92歳で逝去されたニュースが流れ、主な作品の中に「鉄腕アトム」の歌詞があったことにびっくりしました。間髪入れずに歌が口を突いて出た私は、またびっくり。一番だけだけど、すらすらと歌えたんです。
小学生の頃に聞いた歌詞は、脳内にしっかり刻まれていました。

数年前にも、歌詞の力に驚かされたことがあります。
「お江戸日本橋七つ立ち…」に続く歌詞が、すっと出たことで、これも一番だけでしたが、日本橋を「明け七つ」に出発して、高輪で夜が明け提灯を消す、という経過が分るのです。
ちなみに「明け七つ」というのは、現在では春分の頃だと午前3時半頃のことのよう。東京で同時期の夜明けは5時45分だそうだから、日本橋から高輪まで、徒歩で2時間15分ほどだったことになります。
そんなことも歌詞から読み取れるのです。

二番以降になると各地の名物なども盛り込まれます。
検索した歌詞には、「恋の品川 女郎衆に 袖ひかれ」「六郷渡れば川崎の万年屋 鶴と亀との よね饅頭」「登る箱根のお関所で…新道じゃないかと ちょと三島」…当時の東海道の様子や名物も分かります。
歌詞ってすごい、と感動したことを思い出しました。

酒蔵では「酒造り唄」というのがあると見聞きしたことがあります。揃って歌うことで全員が調子を合わせ、時間も計れるというのです。こちらの方はリズムの効用。

かつて職場で救急救命の処置訓練を経験したことがありました。
心肺蘇生をする時に、一定のリズムで約30回胸を押し、その後に口から空気を入れ(口移しで人工呼吸)、それを繰り返す。これって、30回数えるのとリズムを取るのが大変そうだなと思いました。

でも、これにも歌があれば楽だと、当時調べた時に知りました。「もしもし亀よ」が、リズムも長さもぴったりだそう。拍数を取ってみると、一番は32拍になりました。
心肺蘇生という深刻な事態で歌っている場合ではないですが、心の中で歌うのは自由だし、きわめて有効だと思いました。これも音楽の力かな。
  


Posted by 南ふう at 12:09Comments(0)

2024年11月07日

お手本にしたい80歳

さっさとアップするつもりが、もう5日も経ってしまった!

私が所属する「沖縄エッセイスト・クラブ」のメンバーである石川キヨ子さんから、編集のお願いを受けたのは7月でした。「11月2日に卒寿祝いをするので、その時の引き出物代わりにエッセイ集を作りたい、編集してもらえませんか」というもの。

彼女のことは十数年前から存じ上げていて、とても面白いエッセイを書かれます。
しかし…、印刷まで最低でも3ヶ月必要です。大変、大変。
お引き受けして、さっそく作業開始。

私は「沖縄エッセイスト・クラブ」のblogも作っています。
これがあれば鬼に金棒なのです。
このblogから「石川キヨ子」さんを検索すると、彼女がこれまで書いたエッセイのタイトルや、いつ、どの媒体に、というのがすぐに出ます。
なんと40年以上前から、70作品以上書かれていました。その半分以下にしなければ。

作品タイトルを一覧表に、どれに絞るか…。新聞に掲載されていたものは図書館に走り、新聞縮刷版をコピーしてきました。

途中経過は省きますが、突貫工事で大変ではあったけど、とにかく楽しい作業でした。
内容がすごく面白いからです。
そうして10月末に出版でき、予定通り11月2日の傘寿パーティーでお土産として配られました。紅白饅頭よりずっと嬉しいはずです。

その他の事でもバタバタで、今日になってようやくアップした次第。


『ハナコが笑った日』、新星出版、1,800円(税別)。
なんと表紙絵もご自身が描かれました。とにかく何にでもチャレンジする、ぜひお手本にしたい80歳!
  


Posted by 南ふう at 18:13Comments(0)もの書き活動

2024年10月24日

少しだけ秋

台風20号は沖縄とは離れた場所にあり、進路に入ってもいないのに、雨がすごい。
24日の未明に何度も大雨や竜巻、雷や洪水の注意報やら警報がメールで届いていました。
私はぐっすり寝ていたので、朝起きてそれにびっくり。

さて、午後に徒歩で出かけた時は小雨でした。
歩くといいのは、周りの景色をゆっくり見ることができます。
なんと、萩の花が咲いていました。


今年はまだ夏掛けのお布団で過ごしていますが、秋はもう来ているんですね。
  


Posted by 南ふう at 21:26Comments(0)季節

2024年10月13日

那覇大綱挽の旗頭行列

今日10月13日は那覇大綱挽。
普段はまったく興味のなかった私ですが、今年は違います。
実は高校同期の記念誌を作っていて、クラスメイトの祖父が久茂地の旗頭、盛鶴(むいじる)を作られた方であったと知ったから。
1971年のことですから、現在の旗頭はもう何代か代替わりをしていると思いますが、とにかくどんなものか、写真も撮っておきたかったのです。

国道58号での大綱挽の前には、国際通りで旗頭行列(うふんなすねーい)が行われ、14旗(東7旗、西7旗)が伝統楽器の演奏や伝統演武とともに練り歩きます。
久茂地の旗頭は「盛鶴」で、旗字は「與鳳翔」。


何枚も撮ったけど、一番いいのはこれかも。


鶴は、片翼が上下に動く仕組みになっていました。1971年の仕組みと同じかどうかは分かりませんが、もしかしたらその技法が受け継がれているかもしれません。

那覇大綱挽が始まる前に帰ろうと(交通規制があるから)そのまま58号線に出ると、綱はもうセッティングされていました。こんな状態見るの初めてです。
交差点を渡りながら撮らないといけないのに、外国人観光客はすぐにポーズをとって前に立ちはだかりますね。仕方なく、写真の顔をぼかしました。






現在4時過ぎ。もう始まっている頃です。
  


Posted by 南ふう at 16:09Comments(0)地域

2024年10月10日

たぶん52年以上前

今日は用事で向かう場所に、いつもと違う道を通ってみました。
徒歩です。
とにかくデスクワークばっかりなので、用を見つけては歩くようにしているのです。

すると、ボロボロのコンクリートの柱が、狭い歩道に立っていました。
劣化が激しく鉄筋むき出し、何か書いてあるようですが、何だろう?


近付いてみると、片面は英語のようで、片面は日本語のよう。


まず日本語が「駐車禁止」と読め、そうすると英語は「NO PARKING」だったのでしょう。なるほど。
ということは?
きっと復帰前に造られた標柱です。
少なくとも52年以上前のもの。

道端のこんな何でもないものに目が行くオババです。
というか、何回かは通った道ですが、今まで気づかなかったのが不思議かも。

  


Posted by 南ふう at 21:55Comments(0)歴史地域

2024年10月06日

普天間の松の木

復帰50周年の年に私が上梓した本の中に、普天間の松の木があります。
撮影したのは2021年5月5日でした。



私が小学校高学年の頃に通っていた普天間の、「松田医院」の庭にあった見事な松の木の話で。
その松の木が昨日の沖縄タイムスに載っていました。

見よ!この見事な枝ぶりを 宜野湾市普天間にある修繕屋の松の木 店主「毎日元気もらえる」 (msn.com)

総合修繕屋の店主は、「この松の木を、例えば名護の『ひんぷんガジュマル』のように普天間のランドマークとして残す方向で宜野湾市に検討してもらえないだろうか」と提案したそうです。
私も大賛成!
  


Posted by 南ふう at 09:22Comments(0)植物地域

2024年09月29日

イオンの新店舗

「イオンスタイルてだこ浦西駅前」が9/27にグランドオープンするという話は聞いていました。
でも最近、やるべき事が重なっていてなかなか動けなかったので、ついつい聞き流していました。
9/26の夜、ふと気づきました。そうだ、グランドオープン前にひとっ走り行ってみようと。
物好きな話ではありますが、気分転換を兼ねて。


ゆいレールが開通する前は、ほんとに田舎だった場所が、こんなに変わってしまったと今更ながら驚きました。

私が子どもの頃はサトウキビ畑しかなかった地域です。
26年前に帰郷したらずいぶん都市化していましたが、「てだこ浦西駅」ができた場所は、まだまだ畑地でした。
それがこんなすごい駅ができ…駅周辺はもうすっかり見違って、驚きです。


写真は撮ったけど、またやることが重なっていて、アップするのに3日もかかってしまった…というか、歳のせいでやることが遅い!

  


Posted by 南ふう at 21:49Comments(0)地域

2024年09月22日

今日、秋分の日

気候変動で、最近の沖縄は本土より涼しいです。というより本土の方がどんどん暑くなっているというべきでしょう。
台風の発生場所も進路も、昔とはずいぶん違ってきて、本土に上陸する台風が増えて被害が大きい。沖縄と違って住宅は木造が多いし、家の屋根も降雪に備えて急勾配だったりと、台風対策も希薄です。

昨日は台風14号と秋雨前線で能登地方に猛烈な雨が降り、大きな被害が報道されています。「元日の地震の後片付けがやっと済んだのに…」という言葉にならない住民の悲鳴が聞こえます。

日曜日の朝に聞くラジオ番組「サンデーフリッカーズ」も、春風亭一之輔さんが沈痛な面持ちの第一声を発していました。「そんな状況で、もしこの番組をお聞きになっていたら、こんな馬鹿ばっかり言ってる番組をどう思うだろうか」みたいな。
でも気を取り直して、というかそんな方々にも元気をお届けしようと、頑張っていつも通りの放送をしてくれましたけど。

さて、私も気を取り直して、秋分の朝陽を写真に収めました。


少し前(9月2日)に撮った朝陽と並べて見ると、わずか20日間で日の出の位置はこんなにずれています。


今度は冬至と夏至の朝陽も撮ろうと思っています。
春と秋の冬の日の出は真東、日の入りは真西。夏はそれが北にずれて、冬はそれが南にずれますよね。
気候変動、地球温暖化、いろいろ言われますけど、天体の動きは昔から規則正しいはず(少なくと有史以来)。そんなことを考えた朝でした。

新聞によると、秋分だというのに今帰仁城跡で桜が咲いたそうです。しかも残暑の中で。
地球上では、なんだか何もかも狂ってきてますね。
とにかく、能登半島の被災者の方々にはお見舞い申し上げます。
  


Posted by 南ふう at 08:56Comments(0)季節

2024年09月11日

明治10年の写真で

昨日のNHKの「知恵泉」は、写真家・上野彦馬でした。
私が知っていたのは、坂本龍馬の写真を撮ったことで有名なことくらい。でも、もっと偉大な功績を残していた人だったんです。

彼は1862年に長崎に写真館を開業したのですが、写真家である前に、科学者でした。
オランダ軍医ポンペから科学を学び、オランダの書物に書かれている「ホトガラフィとは何ですか?」と問い、ポンペからフォトグラフィという最新の技術であることを知らされます。

彦馬の父親・上野俊之丞は御用商人で、1848年に最初の写真道具を輸入していましたが、早くに亡くなっていました。
当時の写真機は、ガラスの板に塗布したり現像したりと薬品が必要でした。
彦馬は「ビードロはあるが薬がないから、自分で作るしかない」と、アルコールやアンモニアなどを苦労の末に作ったのだそう。
彼にとって、写真と化学は切り離せないものだったのです。
当時は化学(ばけがくの方です)のことを「舎密(せいみ)学」といっていたそうです。

彦馬は人物だけでなく風景も撮影し、さらに西南戦争では新政府軍の従軍記者になりました。そんな早くから従軍記者ってあったんだ、とまずビックリ!

さて、ここまでは長い前置きで、次からが本題です。
彦馬が撮った西南戦争の田原坂の写真を見て、私はある疑問をもちました。
電柱や電線があるのです!
NHKプラスの画面はスクショしても写真が真っ黒になりました。著作権の問題でしょう。
仕方なく下手な絵を描きますね。


明治10年に電線があった? 本当なの?
ところが出演者の誰もそのことに触れない(話題にならない)のです。
考えると眠れなくなってしまい、検索してやっと見つけました。

田原坂西南戦争資料館及び公園コース | ふれあうツアーズ [Fureaú tours] 日本の魅力に触れる旅をナビゲート (fureautours.jp)

「後ろの写真は、当時のもので、街道が写っていて(白矢印)、電柱が立っている。明治8年には東京から熊本まで電信がつながっていて、情報戦でも政府軍は薩摩軍を圧倒していた」という文章が。(ずーっと下にスクロールしてください。でも文章だけで、その写真はありませんでした)

電柱・電線、あったんですね! 納得です!
いやはや、明治維新後たった8年で東京から熊本まで(あるいはもっと全国的に?)電気信号の通信網を張り巡らせていたんですね。薩摩軍、負けるはずです。

上野彦馬からそんなところに発想が飛んだオババなのでした。
  


Posted by 南ふう at 11:15Comments(0)歴史地域

2024年09月04日

グッドタイミング

今日は、高校の同期生と「城岳同窓会館」に行く約束でした。高校の過去の写真を使用させてもらいたくて。

駐車場をどうしよう、会館隣の駐車場はたしか工事中だったし…と思い、バスで行ってみることに。
那覇に飲みに出る時はバスを利用していますが、普段はなかなか…ってことで。

すると、なんと今日はバスが無料。バスを利用してもらうためのキャンペーンらしいです。グッドタイミング! ラッキーです。

普段、昼間のバスはがら空きなのですが、さすがに今日は満席で、立ちっぱなしで脚が棒。
なので帰りはバスターミナルから始発に乗り、座って帰ってきました。


さて、城岳同窓会館、目当ての写真がすべてあったわけではありませんが、かなりの写真を接写させていただきました。ありがたいです。
  


Posted by 南ふう at 16:59Comments(0)暮らし

2024年08月31日

高校同期の思い出話

最近少し忙しくしているのは、高校の同期と記念誌作成の作業をしているから。
来年の出版に向け、寄稿文が少しずつ集まっていて、これが面白い!

MKさんの文章の中に「その頃、学校の帰り道(那覇市の国場川沿い)にあった会社で、煙突の上に居座ったスト決行中の風景を見た。労働者の権利意識が高まった時代であったのだろう。」とありました。
思い出したのは「煙突スト」。

私は2016~2022年まで公文書館内でデジタルアーカイブ事業に携わらせてもらっていたので、見ていた資料の内容を連想ゲーム的に思い出してしまうんです(この仕事をした6年間は、私にとって財産)。

さて、「煙突スト」。沖縄プライウッド社というベニヤ製造会社の従業員4人、1964年3月23日から54日間、高さ33メートルの煙突の上に座り込んでストライキを行いました。
その写真を「那覇市歴史博物館デジタルミュージアム」で検索していたら、もうひとつ、国場川沿いの面白い写真を見つけました。

「パイプラインの通学路」と題された写真は、「那覇港から壺川、与儀、浦添へと続く米軍の油送管は国場川にかけられて一直線にのびていた。架設された板の道は児童生徒の登下校の通路だった。」と解説されています。1974年の撮影ですから、私たちが高校時代にまだこんな風景があったということ。


写真は2枚とも「那覇市歴史博物館所蔵」


ありがたいのは、那覇市歴史博物館デジタルミュージアムの写真は、数年前までは「利用許可申請書」を提出したのですが、現在は「クレジットを入れること」を条件に、申請書なしにダウンロードして使用できるんです。

記念誌にはそういう古い写真を、たくさん入れる予定で、最近の私は写真を探すのが面白くて仕方がない。
  


Posted by 南ふう at 10:44Comments(0)歴史暮らし

2024年08月22日

人類はどこへ行く?

毎朝、まどろみながらラジオを聞いています。
8月20日のONE MORNIMG。「生成AIの課題と可能性」とか「AIにさせたい仕事」とかいうテーマで、ある外国の作家の言葉が紹介されていました。おおむね次のような感じだったと思います。
「私は絵を描いたり物を書いたりしたいのだ。AIには洗濯とか皿洗いをやってほしい。逆じゃなくて」
そうなんですよね。今の流れは真逆。
人間の生活を楽にするためにAIを開発したはずなのに、「考える頭脳はAI、実労働は人間」ということになりつつあります。

つい5、6年前まで「クリエイティブな仕事はAIにはできない」と言われていましたが、生成AIの登場以来、絵画や小説でさえ、AIが作ってしまう。それに伴う問題や課題の解決、法整備などが進まないままで。
あちこちでフェイクニュースやフェイク動画が飛び交う。アメリカ大統領選のキャンペーンにでさえ。
人類はどこへ行こうとしているのでしょうか…。

とにかく今のオババは、AIにはできない生身の実体験を、地味に積み重ねていくしかないな、と思っています。
  


Posted by 南ふう at 09:50Comments(0)暮らし

2024年08月01日

陰影がきれい

日傘を差して歩いていた時、きれいなブロック塀に出会いました。


沖縄では「花ブロック」といってこういう装飾的な穴あきブロックをよく使いますが、こんなシンプルで美しい塀は初めて見た気がします。

花ブロックのいいところは、風を通し、視線を遮ること。
戦後の沖縄で開発された素材だと聞いたことがあります。
真っ白い塀に、この陰影がすごくきれいでした。
  


Posted by 南ふう at 17:58Comments(0)地域

2024年07月29日

首里城の瓦葺き

首里城はこの7月15日から屋根の瓦葺きが始まっています。
この暑い中、ちょっくら首里城へ出かけてみました。
もちろん冷水入り水筒と、いつもより少し大きい日傘を持って。
首里城公園駐車場は満車だったので、友人の家の駐車場をお借りしました。
(いつもありがとう)

首里城正殿の屋根は二層になっていて、上層部分はだいぶ瓦葺きが進んでいました。


下層部分はこれからってところですね。


角から見て左側の軒先は黒く塗られています。おそらく漆なんでしょうね。
右半分はこれからです、ちょうど半々のを見られてよかった。

来年秋には完成予定で(追記:2026年は再来年でした)、完成したら作業が行われている素屋根は取り払われますから、この高さからの風景を見られるのも今のうちです。


中はけっこう観光客が多く、中国語もよく聞こえました。
帰りは人混みを避けて久慶門から出て、ちょっと珍しい角度から歓会門を撮ってみました。


天気がいいから、絵になります。
  


Posted by 南ふう at 20:13Comments(0)歴史地域

2024年07月20日

ブルーシールアイスクリーム

新店舗は、7月23日開店だそうです。
去年の3月31日に建て替え工事のためへ移転していました。あ、移転ではなく閉鎖ね。

南ふう の MINAMI World:ブルーシール本店最後の姿 (ti-da.net)

南ふう の MINAMI World:今日がほんとに最後 (ti-da.net)

近くを通ったら、つい先日まで塀に囲まれていた場所が姿を現していました。
看板と店舗の様子も昔の面影を再現している感じ。


開店したら大勢の人が訪れるでしょうから、しばらくして少し落ち着いてから行くことにします。

車が停まっているのは、隣のドラッグイレブンが一足先に営業しているのかな?  


Posted by 南ふう at 14:36Comments(0)

2024年07月19日

天底のカジノキ

先日(7月13日)、今帰仁の天底を歩いた時、ワルミ大橋の下の藪の中で、見つけた株がありました。


これはカジノキでは?
触ってみると、葉に産毛のような細い毛が生えています。

以前、カジノキの研究者、坂本氏に教えてもらったカジノキはこちら。

不思議なご縁

似てるけど…そして同じように毛が生えているけど…自信がありません。

そこで、坂本氏に写真を送って尋ねてみました。
坂本氏との繋がりはこちらから。

南ふう の MINAMI World:渡嘉敷島のカジノキ (ti-da.net)

南ふう の MINAMI World:牧志のカジノキ (ti-da.net)

お返事がきました。
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説明と写真からは、間違いなくカジノキですね。若い木のようなので、実を食べた鳥の糞で種が運ばれ芽生えているのでしょう。
自然繁殖しやすい条件の良い地域が沖縄には何か所かあるのでしょうね。
京都や青森の「縄文後期の考古遺跡」カジノキの種が出土している報告があり、どこから、どのようなルートで本土にたどりついたのか?
=====

じつは去年の10月、私はもう1ケ所でカジノキらしきものを見つけていました。
「瀬底ビーチマリンクラブ」の道向かいにあるバス停付近です。
でも写真を撮っていなかった……。大きさも同じくらいの株でした。

同じ本部半島なのですが、ワルミ大橋は半島の東側、瀬底マリンクラブは半島の西側。鳥が種を落としたとして、どっちが先に生えたんでしょうね。

坂本氏は沖縄のカジノキ分布を知りたいそうですが、私の手には負えません。
だれが植物好きの人が情報を寄せてくれたらいいんでしょうが……。


  


Posted by 南ふう at 18:18Comments(0)カジノキ

2024年07月15日

線状降水帯

沖縄は晴天の夏空が続いていますが、九州や四国地方は線状降水帯で豪雨や土砂災害が発生しています。お見舞い申し上げます。

ところでこの「線状降水帯」なる言葉、今では普通に使っていますが、いつからできた言葉なのでしょうか。

線状降水帯とは?定義や特徴、メカニズム、予報システムについて解説 | 地球の未来を宇宙から考えるメディア Beyond Our Planet (rd.ntt)

どうやら2014年8月に発生した広島県の集中豪雨からなので、ちょうど10年前のことなのですね。
そういえば、その時私が勤務していた会社に広島出身の人がいて、彼の実家が被害に遭ったことを思い出しました。

私のblogの過去記事に、
南ふう の MINAMI World:線状降水帯と田んぼアート (ti-da.net)
「耳慣れない言葉も、すっかり頭に刷り込まれた」とあるのが2015年9月でした。
たしかその頃は「線状降水帯」のほかに「線状降雨帯」という言葉も使われていたと思います。降水なのか降雨なのか、まだ決まってなかったのかな。

私が関西にいた頃書いた拙い小説の中に、「南の梅雨はスコールのように激しく叩きつける」というニュアンスの文章を書いていました。
四半世紀前、本土の梅雨は、しとしとピッチャンといった風情のある梅雨だったのに、今では普通に豪雨です。
数十年でこんなに気象が変わったんだと実感します。

下の写真は、今年の5月22日、沖縄の梅雨の真っ最中。


すごい豪雨の中外出していて、駐車していた車に戻った時、フロントガラスの雨粒を撮ったものです。
こういう豪雨が日本各地で災害を起こしてるんですねえ……。
  


Posted by 南ふう at 09:04Comments(0)季節地域災害

2024年07月13日

今帰仁にて

今日は今帰仁村の天底(あめそこ)を歩きました。
暑い、暑い。

地元のガイド付きで藪の中にも入ったけど、一番感激したのはワルミ大橋からの眺め。
橋の高さは37.2m。


この写真はワルミ大橋から見下ろして撮ったもので、遠くに見えるのは古宇利大橋です。

ワルミって、漢字は「和呂目」だそうです。知らなかった。
ワルミ大橋の開通は2010年12月。ワルミ海峡(ワルミ水路)は本部半島と屋我地島に挟まれた海峡で、羽地内海へと通じています。
水深が深く、悪天候の際の船の避難場所にもなり、台風の時は、海上保安庁の船も避難するとのことでした。

帰りに友人と、地元紙に載っていたゴールデンシャワーを見に行きました。
一般のご家庭の庭ですが、実に見事。樹齢は約40年だそうです。


すごい、の一言。
  


Posted by 南ふう at 19:09Comments(0)植物地域

2024年07月10日

萬田ドレスメーカー

先日、高校同期との会話の中に「桜坂あたりはすっかり変わってしまった。萬田ドレスメーカーの建物は残っているけどね」という話が出ました。
私は、「萬田ドレスメーカー」という名称には覚えがあったけど、それがどこにあったのかは知らなかった。

いろいろ検索してみると、こんなページがありました。
萬田ドレスメーカー女学院とローマの休日 | ず@沖縄 (zukeran.org)

そこにある写真は、投稿者の考察によると1954年夏ではないかということです。ちょうど70年前。
さらに「萬田ドレスメーカー女学院」ができたのは、新聞広告から察するに、1953年8月頃のようだとも書かれています。
どいうことは、このビルは71年前にできたことになります。すごい!

そこで、探検です。
この暑い中、我ながらご苦労なこった、と思います。

今ではもう、「ハイアットリージェンシー那覇沖縄」の陰にひっそりと建つそのビル。
飲食店などの看板の向こうに、「萬」だけ見えている状態。


近付いてみると、「萬」と見えていたのは「萬田ドレスメーカー専門学院」の看板。
そしてビルの壁には、いかにも年期の入った金属製のプレートで「萬田ドレスメーカー女学院」。


最初は「女学院」だったんでしょうね。
71年もそこに建っているビル。歴史の変遷も刻まれています。

  


Posted by 南ふう at 18:10Comments(0)歴史

2024年06月27日

笠戸丸の歴史

6月18日は「海外移住の日」だそうです。
浦添の沖縄国際センター(JICA沖縄)で、7月1日まで「移民展」が開催されていると知り、友人と2人で行ってみました。
ついでにそこの食堂でランチ、というスケジュールです。

「移民展」は館内の3ヶ所で小規模に行われていて、正直場所を探すのにウロウロしましたが、中でも私がすごく惹きつけられたのが、笠戸丸の船歴でした。

2008年に「笠戸丸100年」みたいな記事を見て(えっ、それってもう16年前になる?)、ブラジルに初めて移民を運んだのが1908年ということを知ったのですが、それしか知らず、その船歴にびっくりしたんです。

笠戸丸の誕生は、1900年(明治33)6月。イギリスで建造された貨客船で、ソ連に売却されています。
日露戦争で日本軍の攻撃を受けた後、接収されて日本海軍の所属となり「笠戸丸」と命名されました。
日露戦争後の1906年(明治39)7月、東洋汽船が海軍から借用し、極東・南米西岸航路に使用しました。1908年(明治41)第1回ブラジル移民船として、歴史にその名を留めることになるのですが……いやいや、その後の笠戸丸の運命がすごかった。

台湾航路の船としても使用されていた笠戸丸は、1927年4月3日基隆発の運航を最後に台湾航路から撤退します。
大連航路へ移り、それから病院船となります。当時、中国情勢の悪化で当地の衛生状態が悪くなり、病院船へと改造されたのです。
1929年に海軍と大阪商船との間で賃貸契約が結ばれ、病院船の任務を終えると、再び商船となりました。

そしてまた、用途が変わります。イワシ工船と蟹工船です。
1938年から1940年、笠戸丸は蟹工船として出漁したそうです。
蟹工船……劣悪な作業環境で酷使された工員の話。本は読んでないけど、『蟹工船』っていう小説がありますよね。
へえ、笠戸丸、あなたはその蟹工船のひとつだったのか…と船の運命に感無量。

それから第二次世界大戦ですね。
1945年7月、日魯漁業がカムチャツカで生産して残されたままになっていたものを取りに、笠戸丸は小樽を出航、そして運命の8月9日、カムチャツカ沖でソ連軍により撃沈。

なんと波乱万丈な船歴でしょう。
思わず、「45年間、お疲れ様でした」と言ってしまいました。

移民の歴史も過酷なものですが、オババは船にも感情移入してしまいました。
  


Posted by 南ふう at 17:32Comments(0)歴史